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仮説の冒険 吉田 司

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8 887条を活性化させたのは誰だ!

 2008年1月、ロンドン大学のロナルド・ドーア教授が週刊エコノミスト誌で『いまは亡き「日本型資本主義」を悼む』と題して、こう日本人を皮肉ったことをわたしはまだ覚えている。
「『安心して企業の長期的経営に専念できた昔のほうがよかったので……それに(日本型)に帰る』と宣言する経営者が一人もいない。……勇気が足りないのか」
 そう、足りないのはお金より先に、まず声を上げる勇気だ=親たちが老人病棟に長期入院が可能だった昔のほうがよかった。そのおかげでむかしは介護地獄(在宅重視)なんてなかったし、887条が悪魔のように力を振るうこともなかったのだ。むかしの日本型福祉の社会にもどろうと、みんなで叫ばなければならないのだ。
 考えてもみるがいい。小泉新自由主義改革はリーマンショック(市場の失敗)で挫折・退場した。それにかわっていまは、大銀行やグローバルファンドの破綻を救うための大量の「公的資金」を投入する《国家資本主義》が登場してきた。つまり新自由主義は間違っており、修正されたのだ。なら、新自由主義改革が作り出した介護地獄(887条)も退場または修正されるべきではないか。われら介護難民は新自由主義の犠牲者なのだ。国家資本主義の「公的資金」で介護地獄を終わりにする義務があるはずなのだ。
 もう一度、前出の朝日新聞、大野更紗の文章に戻ろう。『日本型福祉』の二本柱である「家庭内福祉」と「企業内福祉」の両方が崩壊したという話だった。
「今日、『家族の革命』が進行している。『核家族』は『典型』ではなくなる。『核家族』というユニットの維持に必要な費用を1人で稼げる男性は、残念ながら、もうそう多くはいない。……結婚しない同棲(どうせい)カップル、単身世帯、ひとり親世帯」が増大しているという」
 さっきも書いたけど、そういうのを「家族の革命」と呼ぶかねぇ(笑)。“金(労働賃金)の切れ目が縁(家族形態)の切れ目”ってだけのワイルドな物語にすぎないのではないの、ザックリ言えば。「核家族」形態の家族賃金システムより、非正規雇用の労働者低賃金にグローバル企業メリットを見出したから起こった変化にすぎない。

家族愛幻想

つまり、〈家族形態は賃労働システムの変動とともに変わる。親子間の愛情の深さや絆の濃密さとはまったく関係がない〉という方程式が成り立つ。
例えば子どもがなぜ年とった親を扶養する義務があるのかの理由の一つに「①親が子を育ててきた」親の恩というのがあったが、親たちは「核家族」時代のベルトコンベアーに産業兵士予備軍の一人として自分の子どもを乗せた(差し出した)だけで、それがホントに子を思う親の愛情と親の恩だったかどうかは怪しいものだ。
3.11以後のいまはなんだか妙に「家族の絆」が美談として語られるが、そもそも親子関係なんてそんなに濃密でかけがえのないものだったろうか? むしろ唾棄すべき味がしたのでは――80年代の家族崩壊の子どもたちは母親をママゴンと呼んだし、思春期に入ると不登校児は部屋に鍵をかけて立てこもり両親と口をきくことさえ拒否した。親をバットで殴り殺した少年もいた……。
親たちだって歴史的に非道いぜ――明治、大詔、昭和(戦前、戦中)の家父長天皇制の時なんか、日本国民はみんな「天皇の赤子」(子ども)だったから、実母=実子の生みの親・育ての親の養育関係もヘッタクレもない。天皇陛下の望むがまま男の子はみな戦争に献上して、「お国のために死んでくれ」。バンザイ。バンザイの日の丸提灯行列で送り出してたんだから。子どもは生んだ親のものではなく、天皇さまのものだった。戦争で死んでも靖国神社に祀られて。親たちの懐には戻ってこない。
「靖国の宮にみ霊(たま)は鎮(しず)まるもをりをり帰れ母の夢路に」
 なんて歌って、仏壇にお灯明ともしていたわけで。そういうわが子を献上する「愛国の母」が近代日本の家族モデルだった。
 あの軍国ファッショ時代のアジア侵略スローガン「八紘一宇」だって、八紘は「天が下」(世界)、一宇は「一つの家」という意味で、天皇を親としてアジアの人々をすべて赤子にしてしまおうという=世界「家父長制」の野蛮な物語だったんだから。トンデモナイ親子関係をアジアに作り出そうとしてたんだから、70~80年前の日本人は。
 そんなんだからね、家とか家族・親子の恩なんていまわたしたちが呪縛・脅迫されているほど濃密なものでも引き裂かれ難いものでもなかったのさ。むしろすぐ引き裂かれる。親の恩と扶養義務の相互関係のために血の涙なんて流す必要はないんだ。
前出の『家族本40』の中に載ってる民俗学者・柳田国男の「家」族論てのがすごく面白いから、長文引用しておくね。参考にしてみて。
「『家閑談』で柳田は、オヤコという言葉は、親類の意に用いる地方が多く、元は生みの親子に限定されるものではなく、勢子(セコ)・水夫(カコ)・友子(トモコ)といった多様なコが示すように、コとは労働組織の単位であり、オヤはその統率者を意味したと解釈した。かつての大農場経営では一人のオヤの指揮下に多人数での作業が要求されたが、小農経営への分解はオヤの統率力を弱め、「家」の構成は実の親子に狭められる一方、これを補う関係として親分子分や仲人親・烏帽子親など、仮親をとる慣行が展開したと論じる。今では迷惑とほぼ同義のヤッカイ(厄介)という言葉も、居候という語と同様、元は家居(ヤカヰ)であって、オヤ以外の同居人すべてを指したが、農村経済の変化で労働需要がなくなると、直系以外は厄介者にされていったと説く。すなわち「家」から非血縁者や傍系が排除されていった過程が、たとえばかつては労働力として捨子も受容した「家」を閉鎖化させ、親子心中を派生させる一動因になったと示唆するのである。
『先祖の話』では信仰の面から。そうした直系の親子以外を「無縁」として祖霊から排除されていく経緯を描き出すが、この書の主題である戦没者慰霊の問題に関し、特定個人の差異化をもたらす虞(おそれ)があると危惧し、日本の「家」の信仰体系の「歴史」に不整合なことを問題視する。
 家族という日本語はfamilyの翻訳語であり、明らかに明治以降に普及した言葉である。『族制語彙』には今日の「家族」に相当する集団概念を指す語はなく、各親族間の関係名称しかみられない。強いてあげれば、それはヤカヰであって「家」族といってよい。柳田は『明治大正史世相篇』(一九三一年)で、近代の「家族愛の成長」や「親の子に対する愛情の深まり」が、他の社会関係・親族関係から家族(親子)を分離させていったことを説くが、一方でそれは社会的な「貧と不幸」のはじまりであるとし、過去に拘束される現在の諸問題を生活疑問として問い直し、時代に合わせた対応を「経験を再吟味」しつつ模索する必要を訴える」
 親子関係(血脈の絆)は絶対=裏切ることのできない運命だという《家族愛の神話》から解き放たれよう。そうでないと、家族愛と親の恩を返すこと(扶養義務)とは決してイコールではないことがわからなくなってしまう。われわれは民法887条に縛られた《民法奴隷》では絶対にないのだ。例えば獣の世界を想像してみたまえ。どんな動物、ライオンでも鹿でも狼でも母親は生んだ子を舐めるようにして、いや、舐めながら愛をこめて育てる。しかし成長して“独り立ち”の時期がくると、牙をむいてわが子を突き放す。子どもは子どもの生涯を(どこで野垂れ死にしようと)ひとりでつくってゆくこと=母親は自分のまた別の子づくりのための道を行く。親と子は生き別れる=育てられた子どもが親を育てかえすなんて生き方は自然界には存在しない。ナニ、人間は文明社会で生きている。獣ではない……だって!? でも、生活保護問題対策会議は最近こういう声明を出したぜ。
「英国やスウェーデンでは原則……成人した子の老親に対する扶養義務はない。『家族による私的扶助から、社会による公的扶助へ。それが先進諸国での近代化への流れだ』」(朝日新聞、6月31日)
 とまぁ、そんな脱地獄の物語を書いていたら、ちょうどあのお笑い芸人・河本準一(推定年収5千万円)の母親の生活保護「不正」受給騒動のテンヤワンヤが起きた。正直に働いた者が馬鹿を見る世の中……と非難轟々。でもこの場合、オカンのほうが健康体だったから放置していられた。認知症や寝たきりの病人だったら、そう簡単に介護(特養)放棄できるだろうか。
 それにこの騒動がもたらしたプラス点は、扶養(介護)義務は「強制できない」ということが世間常識として知れわたったことだ。扶養(介護)放棄しても犯罪にはならない――887条は悪魔的「強制義務」イメージを著しく失墜させた。

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  1. 2013/03/20(水) 12:29:34|
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