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仮説の冒険 吉田 司

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デモはずっとあった

最初に撃ち抜くのは、これ。

その(1)柄谷行人の言葉「日本でデモがなくなったのは1970年代から。原発が増え始めたのと同じ時期だ」
そんなことはない。この言葉は2つの意味で間違いか、あるいはひどい誤解である。だってデモの減少と原発の増大とは直接なんの関係もないし、むしろ原発が地方に造られるときは、その賛否を問う住民運動(デモ)が激化する。

70年代からデモがなくなったというのも嘘だ。デモは貧困と格差があるから起こる……という思い込みがあるのではないか。逆だ。社会が豊かさに向かうようになると、デモと暴動は激化するのだ。いまの中国のように。民衆は絶望的貧困と暗黒の中では決して立ち上がらない。彼らが権力に向かって行動するのは己の中になにがしかの力(バックアップする資金や組織、共同体)が宿ったとき。または暗黒の向こうになにがしかの希望の明かり(脱出願望)を見たときだけである。だから豊かな社会ではむしろ“自己主張のためのデモ”は増えるのである。

日本の70年代~80年代、市民デモは減少していない。逆にすぐデモをやる=10人でも20人でも少人数でもやる。労働組合の号令など必要とせず、どこの地方都市でも“小市民のデモ隊が町を行く”光景を日常的に目にするケースが増えたのである。分散化、小規模化、地方分散化して、姿が見えにくくなっただけだ。

その意味で、6月20日付の朝日新聞のこの解説的記事はもう少し日本の高度経済成長の実相に分け入るべきだろう。勘狂ってる。

「1960年、安保条約改定に反対し国会を包囲したデモ隊は30万人に及んだが、戦後日本のデモはここがピーク。60年代末にはベトナム反戦などで激しい学生デモはここがピーク。60年代末にはベトナム反戦などで激しい学生デモがあったが、『当時、全共闘のデモは過激化し、普通の市民が参加できないものになってしまった』と柄谷さんは振り返る」

60年安保のデモ隊が国民的規模に盛り上がったのには理由がある。保守系国際政治学者の高坂正堯の説が一番わかりやすいので、その説に乗るが、当時日本には2つのナショナリズムがあった。ひとつは戦前のような「強い国家」(軍事大国)に戻そうという岸信介の伝統的なナショナリズムの立場。もうひとつは、アメリカ占領軍がやり残した民主化をさらに徹底してアメリカ以上の民主主義国家を作ってやろうという社会党や自民党ニューライトの平和主義の立場だ。

60年代安保騒動とは、その2つのナショナリズムの激突だったというのである。つまり日本人はふたたびあの戦前の軍国主義(満州や東條イズム)に戻るのか否かを国民一人一人が問いかけられた。そうして、答えは「No!」。日本人は戦後平和の経済成長(豊かな社会)への道を選択したのである。一種の国民投票デモの季節だったのさ。そしてその時、先頭に立ったのが「全学連」=彼らは高度経済成長の中で力をつけ始めた労働者・サラリーマン市民と自営業者たちの息子、娘たちだったが,この流れはさらに成熟して8年後「全共闘」(怒れる若者たち)というプチブル急進主義の学生暴動を生み出し、日本列島の大学はどこもデモ・スト・バリケードだらけとなったのさ。

なるほど全共闘の「大学解体」という破壊主義は“新左翼のゲバ棒、火炎瓶”=武装過激派と恐れられて孤立してゆくが、しかしその本質は戦後平和の日本社会でもなお大手を振ってまかり通る〈戦前の古びた封建的システム〉へのプロテスト=ある種の打ちこわし(ライダット)運動だったことを忘れてはなるまい。なぜならその古い戦前的社会システムへの打ちこわし運動は実は、60年安保のニューライト的ナショナリズム(民主化の徹底)路線の、最も過激な最も正直な形での継承なのであり、そうした若々しい、爆発する全共闘エネルギー(スチューデントパワー)は当時の躍動する日本資本主義の成長に必要不可欠のものとさえ言えたのである。だからこそ全共闘世代はデモの季節が終わるや、続々と就職転向して80年代経済大国を支える日本集団主義(護送船団方式)の産業兵士に易々と変貌してゆけたのである。

けれど、モチロンそれは70年代にデモが世の中から消えたことを意味してはいない。70年代は経済成長と工場の公害汚染のスモッグが同時進行で発生したから「青い空・青い海を返せ!」の市民デモが再び日本列島を埋め尽くす。主役が学生から、農漁民・都市住民に交代しただけだ。その中心が〈三里塚〉と〈水俣〉と〈沖縄〉だった。

71年 三里塚「六つの砦」決戦のデモ隊の列(万余の機動隊vs農民一千人・支援の学生・労働者三千人)
72年 沖縄復帰への大デモ隊の列、水俣病患者チッソ本社占拠の東京デモ
73年 水俣病裁判勝利のデモ隊の列(四日市ぜんそくなどの反公害デモの季節つづく)
74年 沖縄海洋博へのデモ隊の列(ひめゆりの塔で皇太子夫妻へ火炎瓶)
75年 ベトナム戦争終結(べ平連をはじめあらゆる階層の反戦平和世界統一行動デモがずーっと続いていた)。公労協、8日間のスト権ストでの労働者の連帯デモ全国化
78年 成田新国際空港開港(開港は一度デモ隊乱入によって阻止された)

ねっ、どこが「日本でデモがなくなったのは70年代から」だ。おかしいだろ。デモの波は逆に日本列島全域に拡大している。だからむかし、わたしは〈空から硫酸の雨が降り、山は枯れ海は毒に染まり、人々と狂い死にしてゆく〉という公害汚染・環境破壊の地獄絵図を呪う、その環境保護運動デモの思想を〈地球滅亡教〉と呼び、「私達の滅亡教列車は70年代から動き出した」(エスクァイア・1992年)と書いたことがある。

滅亡教の市民デモの隊列が向かうのは、緑の山河だけではない。工場のハイテク汚染や都市ゴミ戦争、自動車排煙に騒音公害にピアノ殺人、ワンルームマンション反対だし日照権のケンカやリゾート開発、農薬汚染にオゾンだしフロンだしバイオだしエイズだ……。ありとあらゆるものに反対しデモを組んでわいわいと大騒ぎし、ビラを撒くNPO、NGOの群れ、群れだ。

「70年代から80年代にかけて、日本の都市の到るところでこーした滅亡教の住民列車や消費者列車が走り、やがてそれらは続々と『反原発』の駅に集結して、あのヒロセタカシの亡国の叫び(『危険な話』1986年)に出会うのである」(同前)

ただしそのデモの思想が本気で〈生きるか死ぬか〉の生存闘争まで高められることはなかったことも付け加えておこう。なぜなら、あの時代、いのちを守る反公害市民運動の先頭に立ったのは、都市の小市民の主婦層である。彼女らがビラを作り、町内ネットワークを拡大し、集会デモを組織し戦った。だがその地域を支配する巨大な公害企業に向かって直接行動することはほとんどなかった。彼女らの夫がその公害を出し続ける工場の労働者だったからだ。夫がクビになれば収入はゼロ。妻子は路頭に迷う。だから彼女らは昼に公害反対のビラを撒き、夜は夫の前で沈黙した。加害企業の責任を夫婦で語り合うことはほとんどなかった。主婦は消費者(被害者)でいのちを守り、夫は生産者(加害者)で暮らし(生計)を守る。その二人が子供をはさんでひとつ屋根の下で暮らす時代……70年代~80年代市民デモが増えれば増えるほど、それが時代に対する小市民的不平・不満の“ガス抜きデモ”に変化していったのはこのためである。

というわけでまぁ柄谷行人の「日本でデモがなくなったのは70年代から」の話はマユツバだよ(笑)。
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  1. 2011/08/10(水) 01:03:16|
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