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仮説の冒険 吉田 司

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絶望と同じ量の自由がある!

電源三法ができたのは、1973年に石油ショックが起こり、エネルギーの安全保障が政治問題化したからだとされているが、週刊東洋経済(6月11日)は、次のような興味深い記事を載せている。

「原発を、『過疎地対策』の観点から注目した政治家が現れる。時の首相、田中角栄氏だ。
『東京に造れないものをどんどん造る。造ってどんどん東京から金を送らせるんだ』。世界最大規模の原発となった、自らの地盤、新潟県の柏崎刈羽原発に関し、田中氏はこう言ったという」

つまり原発銀座の列島化は純粋に電力エネルギー問題だけから発したのではなかったってわけだ。「東京から金をむしり取れ!」というアンチ東京の叫び=農村と都市の経済格差を解消してみんなが平等な〈農工両全〉の「ひとつになろう日本」という奥羽越系の悲願=戦後「平和主義」的全体主義の流れがその背後に隠れていたのだ。また全体主義のお説教かよ……とふくれる読者がいるなら、その戦後全体主義は表向き親方日の丸の護送船団方式(=国家社会主義)と、別の名前で呼ばれていたことを思い出してくれ。

そしてそれからゆっくりと次のこの原子力学者・吉岡斉の文章をかみしめてくれ。

「日本の商業用原子炉は、一九七〇年頃より九七年頃まで、ほぼ直線的に年間一五〇万キロワットのペースで設備容量を増やしてきた。その背景には政府による濃密な発電用原子炉市場統制政策があったと推定される。その政策目標は、原発の安定成長そのものであり、その実現のために民間業者が協力してきた。その要となる制度的仕組みが、加圧水型(PWR)と沸騰水型(BWR)の二つのグループへの、電力会社並びにメーカーの振り分けである」(『』)

これ以上引用すると営業妨害になるからやめておくけど、吉岡斉は何が言いたいのかというと、加圧水型、沸騰水型、それぞれの発電方式ごとにアメリカの特定の原子炉メーカーと特定の日本の重電、重工メーカーが組んで、日本の5つの電力会社にバランスよく配分してきたというのだ。「社会主義計画経済を彷彿させる仕組みである」と言っている。

吉岡斉はこの電力図式を「国策民営」(電力民間企業は国家政策に服従し、国家政策と矛盾しない範囲内でのみ自由裁量の余地を与えられる)という言葉で表現しているが、それはまさに親方日の丸(官僚主導)の統制経済以外の何物でもない。そしてそれが戦時統制経済=満州の実験国家経済(奥羽越系の怨念)から始まったということはもうすでに何回も説明している。

というわけで、ようやく東京新聞の(牧)デスクメモの「原発にも近代日本の陰画が投影している」という物語の最終章にさしかかったが、ここにもやっぱり奥羽越系の因果譚で終わらしてみるね。せっかくだから(笑)。こんなの。

戦時統制経済は、1943年東条英機内閣に結成された「統制経済と戦力増強を指導する〈内閣顧問制〉」が重要なポイントだったが、その内閣顧問の一人に理研コンツェルンの大河内正敏という人物がいた。大河内は奥羽越系ではなく千葉県の大多喜藩の藩主の長男だったが、当時理研の工場の多くが新潟にあり、若き日の田中角栄はこの大河内を親分筋にして育ったのである。大河内正敏は角栄に何を教えただろう?

『日本大百科全書』からコピーする。

「彼は一九三五年ごろから『科学主義工業』という思想を掲げ、日本資本主義の性格からくる技術的基礎の脆弱な面を批判し、東北農村の冷害や昭和恐慌による農村の疲弊を救済する『農工両全主義』を唱えた。これらは一定の体制批判もあり、当時の知識人たちに強い影響を与えたが、結局、資本主義に対置された科学主義は経済体制の変革につながるものではなく、農村の救済も安い労働力と封建的な人間関係を利用した工学中心のものであった。これらの主張は結果的に戦時経済体制下で、科学技術動員の役割を果たすものとなった」

つまり1970年代に日本を席巻した「列島改造」(農工両全政策)は、戦時統制経済(ファッショ経済)の大河内理論を〈越山会の思想〉に塗り替えただけのリバイバルだったのである。

そればかりではない。この理化学研究所のコンツェルンでは「仁科芳雄も原子核研究で活躍」していたとある。その昔の縁の名残りだろうか、6月11日付の『週刊東洋経済』に載っている原発「工場」全国マップには柏崎刈羽原発の30㎞圏内の民間工場のトップに「リケン柏崎事業所」の名前が記載されていた。

ただし仁科芳雄がやったのは、原爆開発だった、6月6日付の朝日新聞は「フクシマ 秘められた原爆開発」と題した戦争秘史をこう伝えた。

「東京電力福島第一原子力発電所の事故は、核の世界にフクシマの名を刻みつけた。その原発の約60キロ南西に、第2次世界大戦中に原子爆弾の開発拠点にされた町、福島県石川町がある」

「石川町と原爆開発 戦時中に日本陸軍が進めた原爆開発は、東京の理化学研究所を中心に進められ、「ニ号研究」と呼ばれた。石川町に期待されたのは、原料となるウランの生産。地元の学生たちによる鉱石採掘作業は1945年8月15日まで続いたという」

「ニ号作戦」とは、きっと仁科芳雄の「に」からつけられた暗号名なのだろう。

さて、というわけで最後に“ひとつの謎”が残った。大東京(首都圏エネルギー)を守護する東京電力のほぼ全基に近い原子力発電所が福島(10基)新潟(7基)と二県に集中しているのはナゼかという謎だ。

それは近代東北が戦前の絶対天皇制(西日本政権)の下でさえ落ち着かず軍事的な「下剋上」を夢見るような〈まつろわぬ国〉であり続けたからだ。だから戦後の平和主義はそのまつろわぬ地の上に「金のなる木」を植えた。福島・新潟が、かつての岩手・山形「下剋上」(石原莞爾)にとって替わって登場してきたのは、農工両全という戦前の全体主義のテーマをリバイバルしたからだろう。そのために田中角栄と理研グループの思想がせりあがってきた。

あるいはこう考えてもいいかもしれない――奥羽越の怨霊がふたたび目覚め出てこないように、あのヒロシマ、ナガサキを壊滅させた20世紀最大・最強の核分裂エネルギー(原子爆弾=原子力発電所)の力を新潟と福島の頭上に“封印石”として置いたのだと。けれどその封印石は今度の3・11で崩れ去った。

東北の被災地の人々は焼け野原に放り出されたような状態だ。しかし、しかし……だ。いま東北にはその絶望と同じ量だけの絶対的自由がある。さだめを失った明日がある。震災から4か月。様々な情報が渦巻いたなかで最も感動し勇気を与えられた物語とは、ふるさと東北と日本人の助け合いの物語ではない。

犬の、獣たちの物語だ。

「見棄てられたペット犬たちが、いま徒党を組み野犬化しているそうだ」

東北よ、自由と無一物を恐れるな。食うものも住む場所もないのなら、東京に攻めのぼろう! 放射能の恐怖政治を終わらせるための“直接行動”に打って出よう! わたしは一匹の野犬となってその流れに合流する。
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  1. 2011/07/18(月) 00:34:16|
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