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仮説の冒険 吉田 司

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14 憲法25条の精神はどこへ

 ともあれ福祉権運動は、アメリカの公的扶助・社会福祉政策において、はじめて生存権要求を掲げる画期的な運動だったわけだが、よく考えてみればわれら日本人は戦後の平和憲法25条でとっくにその「生存権」を保持しているのだ。
◎憲法25条[生存権]①すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上に努めなければならない。
 にもかかわらず、この体たらく=民法奴隷の介護地獄で一人ひとりバラバラに孤立し、血の涙を流しているんだ!
 まったくサイテーのお話で、日本人の「人間らしさ」を取り戻す運動レベルはいまなお60年代アメリカの水準にも達していないことにわれわれは赤面すべきであろう。これまでずっと引用させてもらっている『社会保障の歴史』は1977年に初版が刊行された古い本であるが、この本も“日本人よ、もっとしっかりしろ!”と、こう指摘しているぜ。
「一九六〇年代のアメリカ合衆国における公的扶助・社会福祉政策の前述のようなドラスティックな変動をみるとき、日本の公的扶助・社会福祉政策が、アメリカ合衆国以上に強固な枠の中からなかなか抜けだせないでいることをあらためて教えられる。たとえば、わが国では生活保護受給率は近年一%余りの水準にあるが、アメリカ合衆国では、厳しい扶助引締め策がとられたにもかかわらず六九年に五%の大台を超えているのである。わが国がアメリカ合衆国より数倍も豊かな国であるならいざ知らず、この事実はわが国の生活保護行政がアメリカ合衆国にもまして厳しい扶助引締め策をとっていることを窺わせるのに十分である」
 そう、民法887条「直系血族および兄弟姉妹相互」という家族単位での老親扶養義務の強制と戦おうとする日本人は、AFDC(児童扶養家庭に対する公的扶助)受給者が「③家族単位原則の撤廃」を掲げて福祉権運動を拡大させたことに注目すべきだろう。柳田国男の「家」族論で見たように、親子関係(血縁の絆)が絶対視されることは世界一「家族愛」が大好きなあのアメリカにおいてすらないということに気づかねばならない。

ブースの道が消えた

 さて、ここまで英米における公的救済(ブースの道)の歴史を駆け足でたどってきたが、参考になったろうか。世界史はここからガラリと激変する。1980年代の英国サッチャリズムは「個人の自由と競争への信仰」→「福祉国家も役割の限定と転機」を掲げ、新自由主義改革に乗り出し、これに米国レーガノミックスの新保守主義が合流したからである。「福祉国家見直し」(マルサスの道)が、世界史を覆った。2000年代日本の小泉新自由主義改革もその延長線上にあり、すべてマルサスの道だ――ただもう、これらについては読者がすでに身をもって体験している《福祉の冬》の物語であるので、詳しくは述べない。ただひとつ、では現在の野田民主党政権はブースかマルサスは。どっちの道を行くのだろう。
 そこでちょっと思い出してくれ。あのお笑い芸人の母親の生活保護問題がスキャンダラスに報道されたあとに、小宮山洋子厚労相がとった態度を。当時の新聞報道には「厚労相、扶養義務徹底の方針」とある。
「扶養義務は必ずしも強制的なものではない。厚生労働省は、夫婦や未成熟の子の親は強い扶養義務を負うが、それ以外の親族は余力があれば援助する程度でよい、としてきた。生活保護の開始に際し、自治体が親族に扶養できるかどうかを尋ねる調査も強制力はなかった。
 だが、今回の報道を受け、小宮山洋子厚労相は5月25日、親族に扶養能力十分あるとみられるケースについては、扶養義務を果たさせるよう、自治体に徹底させる方針を表明、「扶養は困難」と答えた親族には説明責任を課すよう、生活保護法の改正を検討する考えも明らかにした」
 あるいは「生活保護額の基準引き下げ」(要するに減額)を示唆したという――これは間違いなく「マルサスの道」のほうだ。野党第一党の自民党はそれを上回ってマルサスの道へ先祖返りしようとしている。7月15日付朝日新聞はそのことをこう伝えている。
「『生活保護をもらえなきゃ損というゲーム感覚だ』『働かざる者食うべからず運動をしないといけない』
 今年3月、参院議員の世耕弘成(49)を座長に自民党にできた、生活保護に関するプロジェクトチーム。一部の受給者をやり玉に挙げる声が噴出した。
 議論は5月に党が発表した次期衆院選の政権公約案に反映された。社会保障政策は『自助を基本』とし、給付水準の1割減や医療扶助の適正化など『生活保護の見直し』を目玉にする。
 議員らがよりどころにするのは、元幹事長の伊吹文明(74)が座長の政権構想会議を中心に、2010年1月に改定された党綱領だ。
 ……総選挙では民主党から小泉構造改革による格差拡大などを厳しく批判されて大敗したが、……新綱領では、日本人について『勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民』と規定。『自助自立する個人を尊重し、共助・公助する仕組みを充実する』と掲げている。
『自助自立』は『小さな政府』を志向する新自由主義だけでなく、財政再建派の理念とも共通する。伊吹は当時、民主党の看板施策の子ども手当や農家への戸 別所得補償を『ばらまき』と批判。『国民生活に政府が関与する政策を恒常的にやると、人間は弱いから、自立と自助の心根がなくなる』と指摘した。 ……総裁の谷垣禎一(67)は3月、公約案の骨格とした『谷垣ドクトリン』で、新綱領にはない『自己責任原則』という言葉も使った」
 これに対し、反発する報道もある。
「二百九万人を超えた受給者は、自助努力だけで解決せず生活に困った人たちである。(中略)受給者は、非正規雇用が広がり失業後の就職も難しく、老後も不十分な年金しか得られない低収入者が増えていることが要因だ。社会保障全体の命綱を太くする必要がある」(東京新聞社説、6月13日)
 こちらはもちろん「ブースの道」だ。
「老親扶養義務の強化・徹底」こそ時代遅れのアナクロニズムだという声もあり、その中で生活保護問題対策全国会議が出した声明文ってのが面白い。
「声明文は先進諸国との比較を通して、『老親を扶養すること』まで定める日本の扶養義務範囲の“広さ”を訴えた。厚生労働省の資料をもとに、英国やス ウェーデンなどでは原則、親が子(未成年)を扶養する義務や配偶者間の扶養義務はあるが、成人した子の老親に対する扶養義務はない、としている。
 同会議の代表幹事である尾藤広喜弁護士は、『家族による私的扶養から、社会による公的扶助へ。それが先進諸国での近代化の流れだ』と語る。『日本の制度 もその方向へ向かってきた。老親扶養の義務が民法に書かれているのは、戦後の改正時にイエ制度から完全に脱却しきれなかった結果だ』」(朝日新聞、6月13日)
 では、これからどうなるか。どうするか――朝日新聞の報道はこう続く。
「2012年現在の家族の状況をどう見ればいいか。社会福祉学が専門の岩田正美日本女子大教授は、『小家族化」への注目を促す。『兄弟が減り、子のいない夫婦も増えた。子どもが家族を扶養できる時代ではなくなってきている』
 家業を子が継承することが珍しくなかった時代には、家産を継承する者が老親を扶養することが自然だと見られるような『実態』があった。だが、雇用されて働く人の割合が増え、その実態も変わりつつある、と岩田教授は言う。
 自民党は『社会保障に関する基本的考え方』」の中で、『家族による「自助」』を大事にする方向を打ち出した。『貧困に社会で対応すべきか、個人で対応させるべきか、その哲学がいま問われている』と、尾藤弁護士は訴えている」

哲学を問う場合か!

「哲学が問われている」なんて呑気な父さんこいている場合じゃないの。すべての根拠である民法887条=その〈民法奴隷〉からの解放戦争でも始まらなきゃ生活保護や介護地獄の問題解決はあり得ないだろう。
 だから見ろ。またぞろ厚労省が仕組んだ特養ホーム増築のネグレクト・サボタージュ→自宅介護(私的扶養)の強制がつくり出した矛盾『デイサービス宿泊者の増大。死亡事故10件』がこんな風に大きく噴火したじゃないか。
「お年寄りが日帰りで入浴や食事などのデイサービスを受ける通所介護施設で、宿泊利用が広がっている。背景には特別養護老人ホームの不足がある。通所施設に 泊まることを『宿泊デイ』と呼ぶ言葉も生まれているが、介護保険の適用外のサービスで、法律上の明確な規定もなく、行政の指導は届かない。(中略)
特別養護老人ホームの待機者は多く、行き場を失った高齢者の需要はある。
東京都内に住む保育士の女性(47)は2010年1月、認知症の父(当時77)の面倒を見ていた母が緊急入院。特養ホームを探したが空きは見つからず、ケアマネジャーから『宿泊デイ』を紹介された。
2カ月後、父は施設で容体が急変して救急搬送され、5月に亡くなった。搬送時、左足のすねに骨まで見える大きな傷があったため、施設側に問いただすと、『施設長と担当職員が退職して状況が分からない』と納得のいく説明はなかった。女性は『自分で引き取って介護すべきだった』と悔やむ。
朝日新聞が全国20の政令指定都市と東京23区に『宿泊デイ』の実態を尋ねたところ、宿泊時間帯の事故で少なくとも10人が死亡していた。
東京23区が10、11年度に把握した宿泊サービス中の夜間・早朝の事故は65件あり、7人が亡くなっていた。全国20の政令指定都市では、8市で計30件確認され、死亡者は3人。原因は、転倒や薬の誤処方、食べ物をのどに詰まらせるなどのケースだった。(中略)
夜間の職員配置の基準(特養なら利用者25人以下に職員1人)もない。川崎市では、昨年1月に女性(87)が朝食をのどに詰まらせて死亡。今年2月にも女 性(72)が吐いた物をのどに詰まらせて亡くなった。市の担当者は『事故当時、職員が何人いたかも報告書に書いていないので分からない』。有料で宿泊させるには旅館業の許可が必要だが、市は『実費程度の低料金で、業とは言えない』と、許可をとるよう指導はしていない。
通所介護施設での宿泊サービスについて、厚生労働省は10年から、介護する人が病気になった場合など緊急時の受け皿として、介護保険を適用する検討を始めている。だが、安全面やプライバシー確保などの課題があり、実現には時間がかかるという。
現状の『宿泊デイ』について同省老健局振興課の川又竹男課長は『業者に配慮しつつやってもらうしかない』と話している」(朝日新聞、7月4日)
例えば群馬県内のある有料老人ホームの場合は、東京からの入居者は7人。うち6人は生活保護者で、20人ほどの定員はずっと満床が続いていると、朝日新聞は報じている。

「今は一日も早く死にたいだけ」。区の依頼で入居した女性(93)は涙ながらに語った。2人の兄を若くして亡くし、二つ年下の弟は音信不通。身寄り はない。長年暮らした東京では、役所の掃除で生計を立てていた。持病のぜんそくが悪化し、区のケースワーカーを通じて群馬に来た。生活保護が頼みの綱だ。
 群馬には縁もゆかりもなく、初めての土地だった。「誰も知り合いがいない。こわかった」 (中略)
この施設によると、生活保護受給者を受け入れても収支はマイナス。他の介護事業の収入などで何とか経営を続けているが、この区以外の依頼は断っている。「東京では生活できない人ばかり。心苦しいが、これ以上、手を広げると共倒れになる」
 1部屋13平方メートル以上という有料老人ホームの基準を満たさない部屋もある。だが、改築する資金はない。
 住み慣れた区内の特別養護老人ホームが空くのを2年前から待ち続けている入居者もいる。「ほとんどは集団就職などで上京し、身寄りも帰る場所もない人。これからも増え続けるだろう」。施設で働く男性は語った。(朝日新聞 2013年1月6日)
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  1. 2013/04/17(水) 00:59:39|
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13 福祉権運動の高まり

B.1960年代の「貧困の再発見」と福祉権運動
 フランクリンの国、アメリカの国民意識には「自助の精神」と「貧困者=惰眠」観が深く根付いているといわれ、1950~60年代にかけても強力な公的扶助の引き締めが行われている。生活保護を必要とする下層社会が急速に拡大していたのだ。
 例えばAFDC(児童扶養家庭に対する公的扶助)受給者は、1961年の357万人から64年には422万人に急増したとあり、その急増するAFDC受給者の大半はこの時期に「都市に大量に移住してきた黒人の貧困者」だったといわれている。
 読者にはかつてのニューヨーク・ハーレムの黒人スラム街の荒廃した光景をイメージしてもらいたいが、〈スラムの形成と生活保護者の増大〉って言ったらば、それはあの1601年エリザベス救貧法以来、資本主義が不可避的に生み出したものだったってことも同時に思い出してもらいたい。
 でね、1963年にM・ハリトンという人が『もうひとつのアメリカ』って本を書いたんだって。これが全米に大ショックを与えた。
「59年の時点で全人口の20~25%に当たる4000~5000万人が貧困であった。貧困者たちは閉ざされた環境(例えば黒人ハーレム街:筆者注)のなかで世代間で再生産される『貧困の文化』にとらえられて呻吟している」と暴露したからだ。
 つまりケネディ大統領の「偉大な社会」の中で貧困が再発見されたのだった。
 その後は、
●ジョンソン大統領 「貧困を克服する」ための貧困戦争宣言→「職業訓練を中心とした雇用対策」で効果なし。
●ニクソン大統領 貧困戦争の「敗北」宣言(1969年)
 しかしね、特筆すべきはこの時代、貧困戦争の貧困な福祉行政に対してラディカルに抵抗して戦った公的扶助受給者を中心とした権利要求運動が登場したことだ。
 1950~60年代に黒人差別の撤廃を要求する「公民権運動」のデモの並が全米を揺り動かしたことは読者もよくご存知のはず。キング牧師の非暴力闘争や銃をとって戦うマルコムXの黒豹党(ブラック・パンサー)などが活躍したが、1964年に公民権法、65年に投票権法が成立すると、黒人の権利要求は経済的差別の解消の方向に流れが変わる。その背景には多数の黒人スラム街・AFDCの受給者の半数近くが黒人といった構造的差別が大きかったからである。
 つまり「公民権」運動のエネルギーの中から、黒人の「生存権」「社会保障」を要求する《福祉権》という新しい概念を掲げたソーシャル・デモの波が生まれてきたのだ。67年「全国福祉権組織」(NWRO)の大会には21州の45の都市にある75の福祉組織の代表が結集。アメリカ国家の貧困戦争の欺瞞を批判し、公的扶助受給者による全国的キャンペーンの展開→大量の扶助申請の奨励や不当な扶助制限や権利侵害に対する法廷闘争を含む徹底的な追求を全米に呼びかけたという。

介護地獄脱出の戦い方

 この《福祉権》運動は、いま日本の生活保護(公的扶助)と介護地獄の解決を考える上でもっともダイレクトに飛びつける“戦いのスタイル”だと思うので、彼らの運動スタイルを詳しく紹介しておくね。
●60年代アメリカ 貧困層(下層社会)の拡大→公的扶助者の急増→公的扶助の引き締め
●2012年ニッポン 貧困層(下流社会)の拡大→生活保護者の急増→公的扶助の引き締め論の台頭
 この類似点も頭においた上で、彼らの戦いのスタイルを参考にしよう。特に「大量の扶助申請」運動の展開ってのに、わたしは一番魅了されるんだけど。
「福祉運動が第一にめざしたのは、現行の公的扶助制度の根本的改革であった。具体的には、①健康で人間らしい体面を保てる水準までの扶助基準の引き上げ、②調査活動の縮小、③家族単位原則の撤廃、④プライバシー侵害反対、⑤追加所得を理由とした扶助削減反対、⑥法的諸権利の尊重などであった(J・ポール)。要するに、それは、生存権ないしは社会保障の権利を要求するものであった。かくして、アメリカ合衆国の公的扶助・社会福祉政策を根強く支配してきた自助の原理に対し、すべての者が等しく無条件に社会的生存を国家から保障されるべきであるとする権利要求を対峙する運動が現われたことは、まさに画期的なことであったといわなければならない」
 それはさらにこう発展してゆく。
「アメリカ合衆国の公的扶助・社会福祉政策とその原理を根底的に批判した福祉権運動は、それだけ多くの抵抗や規制をうけることになったが、ヴェトナム戦争の拡大と逆比例して貧困戦争が縮小していく状況の下で、運動はさらに発展していった。その戦術も、黒人運動や反戦運動などの影響をうけて、法廷闘争やデモ・座り込みなどの抗争的な直接行動が多用されるようになるのである。そして、一九六七年の社会保障法改正による「労働奨励事業」(Work Incentive Program)に対する反対運動、七〇年のニクソン政権下での「家族扶助事業」(Family Assistance Program)に対する反対運動などの大規模な運動展開によって、連邦政府も、その政策形成においてNWROの存在を無視しえない影響力をもつに至ったのである」
 けれども1970年代のベトナム戦争の敗北→経済悪化(スタグフレーションの時代)の中で、アメリカの社会運動全般的に後退し、福祉運動も力を失ってゆく。いわば、ブースの道の歩みはここで終わり、その後からは再びあの公的救済をネグる・縮小することを信念とするマルサスの道が新しい名前で再登場してくる。「新保守主義」(ネオコン)「新自由主義」(ネオリベ)という新しい名前で。福祉社会の冬の時代が到来するのである。
  1. 2013/04/12(金) 00:11:28|
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12 公的救済、恐慌、戦争

 その後世界はマルサスとブース、どっちの道を歩いたのだろう。駆け足で歴史の中を走ってみよう。
①まず、第二次世界大戦中のイギリス・1942年『ベヴァリッジ報告書』が出され、戦後、第三次労働党内閣によって具現化された。この報告書は英国の《ゆりかごから墓場まで》の画期的な生活保障の原理・体系を打ち立て、福祉国家の「理想」は『ベヴァリッジ報告書』にありとまで言われたという。
 ウィリアム・ベヴァリッジの言葉はこう。前出の『社会保障の歴史』からの引用だ。
「『窮乏の根絶は単に生産の増強のみによっては達せられないのであって、正当な分配を必要とする。……必要なのは、賃金労働者自身の間の収入のある時期と収入のない時期、あるいは家族の負担の多い時期と少ない時期、また、それが全然ない時期との間の、購買力の分配をよりよくすることである』として、所得再分配を通じての生活保障論を展開した。われわれの生活保障は、ベヴァリッジの強調する社会保障体系と民主主義原理を貫徹させたとき、はじめてその出発点に立つことができる」
 ただし、ベヴァリッジ報告書はなんのために提出されたか。それはね、あの1929年米国ウォール街大暴落から始まった世界恐慌でイギリスは100万人を超える失業者=公的扶助受給者を出し、英国資本主義は危機に陥った。そして二度目のヨーロッパ大戦が勃発したのだ。
「『ベヴァリッジ報告書』は、失業保険を中心に従来の『社会保険の破綻』と悪化しはじめた経済状況、とくに、第二次大戦突入という英国資本主義が直面した世界恐慌以上の課題に対応すべくうみ出されたものである。
 第二次大戦下の国家政策として、(1)失業を経験した国民を戦争に動員することが不可避であり、(2)戦後到来する経済変動と社会不安をいかに予防するかが、緊急課題となった」
 つまりこれは、戦争協力と戦後の社会不安を安定化させるために作られた社会保障で、かつて民衆暴動や革命予防のための治安対策として1601年エリザベス救貧法を施行した、あのはじまりの時代とほとんど変わらない提出理由である。とすれば、公的扶助(生活保護)はイコール治安対策(革命・暴動の予防)なのであり、社会保障の道を充実させるには民衆騒乱(貧乏人の一揆)を起こすのが一番ということになる。もちろん暴論だが、国家は選挙の一票で変革できるものではない。それは国会・政党取引という安全制御装置の中で無効化させるからだ。国家は治安悪化したときにだけ動く=それが福祉大国だったイギリスの歴史が示す教訓だ。

ニューディール政策は効果があったのか

 では次に、(2)あのフランクリンの自己責任の国アメリカの連邦国家による公的救済=社会保障の歴史の中からブースの道の歩みを2つピックアップしてみよう。
A.1935年ルーズヴェルトの社会保障法(ニューディールの救済政策)
 ウォール街からはじまった大恐慌期のアメリカ社会は失業者1300~1400万人といわれ、崩壊の瀬戸際にあったが、ハーバート・C・フーヴァー大統領は資本主義の教義である「自由放任主義」(自由競争の原理)に固執し続け、失業・貧困問題への対応は「(連邦)政府によるいかなる施与にも反対」した。そのためアメリカ各地の町には失業者たちの掘っ立て小屋からなる「フーヴァー・ビル」が現れたという。
 1933年に大統領となったフランクリン・D・ルーズヴェルトは、失業者救済=雇用の創出のための「ニューディール」(銀行救済と産業復興と公共事業の拡大)を打ち出した。
「ルーズヴェルトはいち早く連邦緊急救済法(Federal Emergency Relief Act)を制定し、失業者を貧困者のうちに含めて救済するという方式を採用していた。ここに、連邦政府による救済がアメリカ合衆国史上初めて実現したのである。同法によって、連邦政府は従来から救済責任を担ってきた州・地方政府に補助金を交付することとした」
 恒久的には「社会保障法」を制定。内容は老齢年金制度(離職した65歳以上の老人)と失業保険制度の二種類の社会保障に加えて、三種類の特別扶助(老人、要扶養児童、盲人)制度から成っていた。
 ただし、ルーズヴェルトのニューディールは歴史のうえで絶賛されているほど実際には成功していない。D・A・シャノン著『アメリカ:二つの大戦のはざまに』の中にこうはっきりと記されている。
「たしかに(ルーズベルト大統領の)ニューディールは経済状態を改善したが、アメリカに繁栄を取り戻させたのはニューディールではない。それは戦争(第二次世界大戦)である」
 前出の『社会保障の歴史』も戦争景気が恐慌をぶっ飛ばしたと評しているぜ。
「ニューディール救済政策の真価が試されるよりまえに、アメリカ資本主義の戦時経済化が進行していった。そして、それとともに大不況期を特徴づけたあの厖大な過剰人口の問題=失業と貧困の問題は、雲散霧消してしまった」
 では、例によって、そもそもニューディールの公的救済政策はなんのために、誰のためになされたものなのかを歴史に尋ねてみよう。
「ルーズヴェルトの政策は、いずれも社会主義やファシズムへの道を辿ることなく、アメリカ資本主義体制を維持していくための、労働者・失業者・貧困者その他勤労大衆を連邦政府(体制)の受益者・支持者として繋留しようとする努力の表れに他ならなかった」(前掲書)
 それは一言でいえば、「革命の予防」ではなかったろうか。ニューディールは「貧民のため」というよりは「国家のため」または「資本主義のため」になされたのであり、その証拠にアメリカ合衆国における失業と貧困の問題は第二次世界大戦と戦後の冷戦体制、軍産複合体支柱とした繁栄の中で忘れ去られていったという。1960年代の次の民衆騒乱が起きるときまで。
  1. 2013/04/11(木) 00:57:20|
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11 公的扶助に対する2つの道

 生活保護や老親介護について考えるなら、行く道は2つある。マルサスの道か、ブースの道か、である。
 でね、ここでちょっと寄り道・まわり道。面白いクエスチョンをひとつ。ブースの報告書「(4)宗教活動による対応は貴重なエネルギーの消耗であり効果を期待できない」という宗教無効論が出たのとほぼ同時代に、あの有名なマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』(1905年)が公刊されている。こちらは宗教的パトス(情熱)が資本主義成立の背景になったという、宗教有効論だったよな(笑)。
 では、ウェーバーは、マルサス主義かブース主義か。どっちの道を歩いたでしょう? 答えは簡単=ウェーバーはね、近代資本主義は、「長年月の[宗教]教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ」と述べています。それに必要な「長年月の[宗教]教育」というのがプロテスタンティズムだというわけです。
 そしてその最良のモデルとして彼は、「アメリカ建国の父」ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という清教徒(ピューリタン=白人プロテスタント)の禁欲主義的市民精神(勤労と倹約)を大きく賛美します。
 フランクリンの考え方とは、次のようなものです。
「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で一〇シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けていて半日を過ごすとすれば、娯楽や懶惰のためにはたとえ6ペンスしか支払っていないとしても。それを勘定に入れるだけではいけない。ほんとうは、そのほかに五シリングの貨幣を支払っているか、むしろ捨てているのだ」

資本主義のほんとうの精神

 ただね、本当にプロテスタントの禁欲主義から資本主義の精神が誕生したか大いに疑問だと、H・G・ガットマン著の『金ぴか時代のアメリカ』(1986年初版)は書いているんだ。フランクリンも次のような人物像だったらしい。
「事実は決してそんなに単純ではなかった。アメリカがまだ前工業的だった時期、工業化しつつあった時期、そして世界第1の工業国家へと成長を遂げた時期、すなわちアメリカ史上のあらゆる時期に、プロテスタント的労働倫理がアメリカの社会構造の中に深く根を張ってはいなかったということを、著名な有力者を含む多くの分野のアメリカ人が、その思想と行動を通じて明らかにしている。(中略)
 ベンジャミン・フランクリン、アンドルー・カーネギー、ヘンリー・フォードを生んだこの国でさえも、非工業的な文化と労働習慣がいつの時代にもはびこり、『プロテスタント的労働倫理』とは相容れない新しく来た労働者(ヨーロッパからの移民/筆者注)によって培われたのである。『名誉、忠実、時間厳守、私的信義、財産の神聖視、約束と契約の道徳的遵守なしには。製造業は栄えるどころか、存続することさえできない』。こう主張したのは、マックス・ウェーバーではなく、ジョン・アダムズ[第二代大統領。在職一七九七~一八〇一年]だった。『知的で誠実、なおかつ決然たる政府』だけが、このような『徳性』と『習慣』を育成できるのだ、とアダムズは信じた。他の建国の父祖たちも、労働諸階層の内部にこのような徳性が欠けていることを心配した。アレクサンダー・ハミルトン[初代財務長官。在職一七八九~九五年]が誕生して間もない共和国を工業化するための壮大な計画を提唱したとき、ある親友は、『神がアメリカに労働者として聖者を、また彼らを導くために天使を送りたまわぬかぎり、この計画を成功にみちびくのははなはだ難しい』と述べた。ベンジャミン・フランクリンも同様な心配をしていた。一七八六年、彼は貧民救済を非難し、イギリス人労働者に規則的な労働習慣が欠けていることを嘆いた。『わが労働民衆は聖月曜日[日曜日の飲酒の結果、労働者が月曜日に欠勤したり、仕事を怠ける場合の表現]を平然と日曜日と同じようにすごしている。協会で安上がりに時間を費やすかわりに、居酒屋で金をかけて時間を浪費する点がちがうだけだ』と述べた。そこでもし救貧院を閉鎖すれば、『聖月曜日と聖火曜日はやがて休日ではなくなるだろう』とフランクリンは信じたのである」
 つまり、フランクリンは低賃金労働者と飲酒の悪習を結びつけ救貧院の閉鎖を主張するような人物であり、そのフランクリンをウェーバーは近代資本主義精神の最良のモデルと絶賛したのである。そう、マックス・ウェーバーはフランクリン的道徳律→マルサス的な「自己責任」(社会福祉の縮小・打ち切り)の道を示した……と言えそうです。まあ、厳密に学術的検討したわけじゃないから、保証はできないけどね(笑)。
  1. 2013/04/04(木) 23:51:31|
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10 公的救済は怠け者を増やすだけ論

歴史的にふりかえれば、「正直者が馬鹿を見る」という貧民の公的救済反対論というのはもう何百年も前から言われ続けてきた。今始まった話ではない。その代表例があの『人口論』のマルサスだ。ヨーロッパ近代のイギリス産業革命とフランス革命(共和制)という「二重の革命」が進行する中で、1817年イギリスの救済税は「救貧法」(国家による救済)史上最高の787万ポンドに達した。課税される地主、産業ブルジョアジーら支配階級の不満は増大。その代弁者としてマルサスはこう主張した……のである。
「イギリスの救貧法は、人口を支えるだけの食料を生産しないで人口を増加させてきた。貧民への扶助は、勤勉で大切な人々の分け前を少なくさせ、独立できない人を増加させるという欠陥をもっている。……(下層階級の)貧困は、マッタク個人的な怠惰・不注意によって引き起こされたもので、公的な救済は、貧民の怠惰を助長し、自助独立の気概を失わせる。有害無益なもの」(『社会福祉の歴史』、1977年初版)
 そもそも、なぜ国家は下層貧民を救済するのか? キリスト教的慈善か女王陛下の恩恵か。ちがう。1601年制定のエリザベス一世「救貧法」によれば、それはロンドンなど大都会に群れる乞食・浮浪者の禁止・処罰→労働能力者への就業の強制・貧窮児童への徒弟の強制・労働無能者(病人・老人)への分配(救済)から始まったのである。つまり泥棒と食料暴動を予防するための貧民窟(スラム)対策としてスタートしたのだ。
 なぜそんなに乞食ルンペンが多かったのかというと、15~16世紀の羊毛・毛織物工業による「囲い込み」運動によって農民は土地を奪われ、中世農村経済は崩壊。大量の農民が物乞いの放浪生活に陥り、そのままドブネズミのようにロンドンなどのスラム街に流れ込んだからなのだ。
 すなわち下層貧民とは「個人的な怠惰」(マルサス)から生まれたのではなく、台頭する近代産業ブルジョアジー(エリザベス重商主義)が意図的に作り出したものだった=これが国家が救貧(公的な救済)せねばならない本当の“隠された理由”なのである。
 そしてこうした貧民に対する国家的責任は1903年、「科学的貧困調査の創始者」と呼ばれるチャールズ・ブースが書いた報告書『ロンドン民衆の生活と労働』の中にはっきりと明記された。どのような内容か? 前出の『社会保障の歴史』は次のように解説している。
「チャールズ・ブース▼彼は、一八八六年から一九〇二年にかけて三回にわたる調査を近代的大都市ロンドンにおいておこない、労働者階級を中核とする貧困の実態・原因を明らかにした。その報告書『ロンドン民衆の生活と労働』(Life and Labor of the People in London,17 Vols.,1902-03)は、(1)全人口の三〇・七%(約一三八万人)が「貧困線」(the line of poverty 週賃金二一シリング)以下の生活を送っていること、(2)貧困は飲酒・浪費などの「習慣の問題」(question of habit)ではなく、不規則的労働・低賃金といった「雇用の問題」(question of employment)および疾患・多子といった「環境の問題」(question of circumstance)に起因し。特に前者が大きな原因であること、(3)貧困と密住は相関すること、(4)宗教活動による対応は貴重なエネルギーの消耗であり効果を期待できないこと、などの諸点を明らかにしている。
また、付帯調査として救貧法による救済理由に関する調査を実施し、救済理由として老齢と疾病が最大の理由であるということを明らかにした。一方、彼は全国的規模の老齢貧困者の数量的把握を試み、年金計画を幾度となく提案し、一九〇八年の無拠出老齢年金制度の創設に大きな影響を及ぼした。
▼十九世紀末葉におけるこのような「科学的貧困調査」は。資本主義社会に特有な貧困という社会現象を初めて社会的レベルにおいて実証し、貧困が前社会的問題であって、何らかの国家による対応策が必要であるという認識を強める(中略)確固たる基礎を提供したのである。こうして、「個人主義的貧困観」から「近代主義的貧困観」への転換の橋頭堡が構築され、(中略)一連の社会改良的政策が展開されたのである」
 1908年の無拠出老齢年金制度というのは、20年以上在住する70歳以上のすべてのイギリス人に対し、「資力調査」を条件にして、年金を権利として支給する(年金額は、年間所得21ポンド以下の者については週5シリング)というもので、「権利としての年金支給は、(救貧法のもつ)慈恵性からの脱却の第一歩」であり、現代の公的救済(生活扶助)のカタチ=その源流はここらあたりから発していると考えてよい。
  1. 2013/04/02(火) 23:06:09|
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